4:反省部屋

 

 エステスの反省部屋は王女棟の三階、長い陰気な廊下の奥にある。室内には粗末なテーブルと椅子が一脚ずつ置いてあるだけだったが、実はエステスはこの部屋が嫌いではなかった。部屋の小窓が城の裏庭に面していて、恵みの木の茂みの中に厨房や倉庫が見え隠れしている。倉庫の向こうには使用門があり、門番が一人、城に出入りする人を検問する様子も見える。お仕置きでなくても、エステスは時折この部屋に来て人々が働く様子を眺めることがあった。

 「すぐに、カルハ先生がいらっしゃいますよ。歴史書を三冊ほど持っていらっしゃるというお話でした。」女官のコマはそう告げると声を低めて、

 「でも、昨晩のお忍びがばれなくて、ようございました。」

 コマはエステスの亡くなった母ミステスの付き人だったが、エステス誕生後は乳母兼女官として王女に仕えている。エステスにとっては母親同然の人だった。

「今日はお茶もお菓子は無しでございますよ。姫様、物事は賢くなさいませんとご損をされますよ。」と、言い置いてコマは部屋を出て行った。

エステスは窓近くに腰掛けるとテーブルに肩肘をついて外を眺めはじめが、目は空ろに厨房や木々を写すだけで、頭の中では昨夜の事を逐一思い出していた。

 

恵みの木の花が閉じて、芯に種油をひたした通り沿いの街灯がちらほらと灯り始めた頃、マントを頭からすっぽりと纏い、共同浴場の裏を歩いていたエステスとコマは、ボロ布のような頭巾を被って道端に座っていた人物に呼び止められたのだった。

「お譲さん。高貴な相がでておられる。よく見せてくだされ。恵みの木の実五粒で何でも占って進ぜましょう。」

しわがれた老婆の声だった。小さな皿が足元に置いてある。エステスの後ろに立っていたコマが囁いた。  

 「占い師ですよ。ろくな者ではありません。先を急ぎましょう。お城に戻る時間です。」

 二人がその場を離れようとすると、老婆はさらに震える声で話しかけてきた。

 「お嬢さん、恐ろしがることはない。もうすぐ大きな変化がおとずれる。何か生き物が一緒じゃ。昔の時代の生き物じゃ。」

 エステスは興味を覚えて振り返った。

 「そうじゃ。あれはたしか、ライオンとかいった動物じゃ。たてがみをなびかせて現れる。」

 ―ライオンですって。―

 エステスは不思議に思い足をとめた。ライオンは地上時代に生きていたとされる動物だが、今ではそれが本当であったのか誰にもわからない、いわば伝説上の存在だ。立ち止まったエステスに向かって、老婆の干乾びた手が擦り切れた袖口からすうっと現われ伸びてきた。頭巾の奥で占い師の瞳が鋭く光ったように見えた。皺だらけの手が王女の若いしなやかな手を捕らえた時、エステスは背筋にゾクッとした戦慄を感じたが、何か強い力に惹かれたかのようにその場を立ち去れないでいた。

「おお、光と影が交差しておる。影の形がぼんやりと見える。」

 老婆はしぼりだすような声で語り続けた。

 「そう、ライオンの影じゃ。茶色い肌に金色の髪と瞳を持っていたと伝えられているが、正しくその通りじゃ。ライオンの影があなた様の光を覆い包んでおる。お嬢さん、あなた様はライオンと共に歩まれる。出会いの日はそう遠くないであろう。」

 「ライオンと私が出会うですって。」

 エステスが声を出すと、老婆は一瞬にして別世界からこの世界に戻って来たかのように白けた様子でエステスの手を放して言った。

 「それ以上の事はこの霞んだ目には見えませぬ。」 

コマが“戯言を。”と、言わんばかりに憤然と恵みの木の実を五つ皿に投げ入れると、エステスの袖を引っぱった。立ち去ろうとする二人に老婆が静かに言った。

 「高貴なお方。お気をつけて行きなされ。ご自分の信じる道を進みなされ。そうすれば希望を見い出されるであろう。」

 エステスが再び振り返って見たものは、沈黙に浸った生気の無い老婆の姿だった。

 

 ―だとすると、やはり私はリジェと結ばれる運命なのだろうか。―と、エステスは窓辺に座ったまま溜め息をついた。裏庭には、さっきからひっきりなしに人がやってきては、ライオンの紋章が描かれたエミ家の旗を何本も倉庫に運び入れている。逆に祝賀会のための装飾用小道具を倉庫から運び出す者達もいる。それは、活気のある光景のはずなのだが、

 「皆、老いている。」と、エステスはため息まじりに言った。出入りする使用人のほとんどが父や大臣達と同じように髪は白く、顔には何本も皺があった。

 

 神聖王が地底に王国を築いてからすでに千年という月日が流れている。その間、人々は‘戒律の書’に従って生きてきた。‘戒律の書’は王室の神性を唱え、絶対王政を国家の規範とし、司法権、立法権、行政権は全て王個人に帰属している。書に記された規定は物資の生産、分配流通、人口管理など、国家が地底で存続するのに必要なありとあらゆる事項に渡っており、例えば、識字教育は王族貴族と高級官僚だけに許され、職業は世襲制をとった。地底という限られた空間と資源の中で、戒律の書は変化や発展を嫌ったからだ。王の絶対的な管理のもとで、地底社会は最低限の消費と維持に必要な分だけの生産を繰り返し、完璧なる循環型社会が営々とできあがった頃、自然に人々の寿命は伸び、反対に出生率は下がり始めた。今では国民の半数以上は百歳を超えているが、子供の数は減り続けている。

エステスが眺めている裏庭の人々の多くも硬くこわばった体で働いている。何世代にも及ぶ太陽光の無い生活の中で、人々の髪や肌は白く透き通り、そこに老いが重なり、その死んだような肌色はエステスの気を重くした。

 ―千年前とは多くの事が違ってきているはずなのに、お母様のたどった運命を私もたどらなくてはならないのかしら。― 

 

エステスは母の呻き声を忘れる事ができなかった。十数年も前の光景が今でもはっきりと思い出される。ミステスは数人の産婆に取り囲まれて、産室に横たわっていた。美しく装飾された白い布が女王の体を覆っていたが、その異常に膨らんだ腹部の醜さを隠すことはできなかった。母親の大きなお腹が苦しそうに上下しているのをエステスは恐怖を噛み殺すようにして黙って見ていた。ミステスはそんな幼い娘に微笑もうとしたが、立て続けに五度の妊娠を経験した母はすでに、女王というよりもやつれた一介の産婦で、口元が力なく緩んだだけだった。

「すぐに、終わりますよ。」

ミステスは囁くように言うと、手を伸ばして娘のやわらかな頬を撫でた。母親の手の平のほのかな温かみがエステスに伝わってきた。

「心配しないで、お部屋で待っていらっしゃい。」

 コマがエステスを産室から連れ出した。

陣痛は三日三晩続き、産婦の苦しむ声はエステスの部屋にまで聞こえてきた。だが、赤ん坊はさっぱりと生まれる様子はなく、その間、エステスは食事も喉を通らず、母の無事を祈りながらコマにしがみつくようにして過ごした。四日目に、エステスはコマに連れられて再び産室に入って行った。

今度は多くの人達がいた。産婆だけでなく医師が数人いた。父王も、大臣達もいた。病気の兄のマビンも付き人のペドが押す車椅子の中で鎮痛な面持ちで座っていた。エステスには、そこにいる人達全員が、まるで亡霊か何かのように見えた。皆、暗い顔をして消沈して立っている。

一人の医師が布でぐるぐると包んだ小さな物体を抱えている。ふと見ると、すぐ横のテーブルに血液で汚れた大きなペンチのような道具が置いてあるのが目に入り、エステスは思わず後ずさりした。だが誰も、幼い王女に話しかける者も、抱き上げてくれる者もいなかった。父王も、コマでさえも、黙ったまま分娩台を見つめている。エステスは皆の視線を追ってハッとした。分娩台の上で横たわっていた母親の姿は随分と小さくなっていた。両目は深く窪み、濃いくまにおおわれている。青白い光が顔全体を覆って揺らめいているように見えた。ミステスの瞳がさまようように幼い王女を探し始めると、コマは思い出したようにエステスを分娩台のすぐ脇に押し出した。ミステスの震える手が頬に触れた時、エステスはゾッとした。四日前とはまるで違う、痩せてカサカサに渇いた感触に思わず身震いしたのだ。ミステスは悲しそうに王の方を見ると喘ぎながら言った。

 「私と同じ苦しみをこの娘にはお与えにならないでくださいませ。」

 父王は硬い表情のまま頷いた。一筋の涙が母の頬を伝わると同時に、エステスに触れていた手から力が抜けてダラリと伸びた。コマがエステスを抱きしめ、その場にいた数人の女性から嗚咽がもれた。女王崩御の知らせが国民に伝えられたのは、その翌日だった。

 

戒律の書では、王権神授を保つために、王族同士の婚姻しか認めていない。それが近年、近親相姦の問題を起こし始めたことは、まだ、一部の人間の間でしか囁かれていない。今までにも流産、死産、虚弱児の誕生などがあったが、城は念入りにその事実を隠蔽してきた。王族の中でさえ事実を知らされていない者も多い。いや、皆、うすうす気付いていたとしても、あえて知ろうとはしてこなかった。だが、エステスはこの問題が彼女の代になって抜きさしならない状態である事を感じていた。

―王族の中に本当に健康な男子がいったい何人いるのかしら。病気を隠している者も多いかもしれない。―

エステスはできれば結婚などしたくなかった。だが、ミステスがやっとの思いで産み落とした唯一の兄が虚弱で子孫の維持が危ぶまれている以上、エステスに血統継承の期待がかけられている。

―リジェが健康かどうかなんて誰にもわからないわ。―

エステスはリジェのむくんだ顔と姿を思い出してぞっとした。

―仮に彼自身は健康であるとしても、次の子供が健康に生まれるとは到底思えない。―

しかし、根拠もないことを王や大臣達に言ったところで物事が変るはずもなかった。とっくに父王は意を固めてしまっている。今までにも、エステスは何かにつけこの結婚には不同意の意思を示してきたが、それが、何の効果もないことは彼女自身が一番良くわかっていた。父と話す時には、いつも、一種のあきらめのような気持ちが彼女には最初からあった。

 

カルハ教授がドアをノックする音で、エステスはハッと我にかえった。ドアの方を振りかえろうとした瞬間、彼女の瞳は窓枠の向こうに不思議な人影を捕らえた。裏門をくぐって、荷車を引いた二人の男が庭に入って来る。一人は小柄な老人で額に布を巻いている。もう一人は真っ直ぐに背丈が伸びた青年だった。エステスは青年を見つめた。その肌は茶色く、額を豊かにおおっている長い髪は恵みの木の光を受けて金色に輝いている。

―茶色い肌、金色の髪・・・、誰。―

  エステスは我を忘れたようにつぶやくと、青年の姿を目で追った。箱がいっぱい積んである荷車を後ろ側から押しながら、彼は物珍しそうに城中の様子を眺めている。前で車を引っぱっている老人が振り向いて青年に何か話すと、二人は厨房に向って進んで行った。

 カルハ教授が一際激しくドアをノックした。エステスは急いでドアを開けると、

「王女様、何度もノックをいたしましたのに・・・。」と、苦言を述べようとする教授に向かって、

「歴史のお勉強は外でいたしましょう。」と、言うなり、老教授を引っ張っりながら裏庭を目指して階段を駆け下りていった

 

                       

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©  2009  B. B. Sakiko