第一章:始まり
その日、年老いた王の目が突然開いた。何年も霧がかかったように霞んでいた両の瞳には、霊に取り付かれた者のような光がこうこうと宿り、萎えてしぼんでいた四肢にはみるみる力が戻った。王は五年を寝たきりですごした寝台からむくりと起き上がると両足ですっくと立ち、臨終に備えて集まっていた重臣たちが驚き恐れいて後ずさりをするなかを無言のまま通り抜け、部屋を出ると、城の一番高い塔の頂上をめざして螺旋階段を一人上っていった。その歩調は若い兵士のように早く、大臣の中でただ一人ルパだけが王の後をついて駆け上がって行くことができた。
尖塔の見張り台に立つと、ヒューヒューと音をたてて吹きすさぶ風にさらされながら王はまず、北の方角を見つめた。この小さな王国を囲む城壁の北門は閉ざされ、その向こうには無人の草原が乾いた空の下遥か彼方まで広がっている。この地域で唯一オアシスの潤いに恵まれた草原だ。次に王は南の方角を見た。南門も閉ざされ、城壁の外は丘陵地になっている。丘は南に行くにつれて険しくなり、地平線には赤茶けた山並みが続いている。その山を越えた向こうは延々と続く砂漠となる。
王は再び北を向くと、目を大きく見開いてじっと彼方を凝視した。その視線は、茫漠たる空間から何か大事なものを探しだすかのように、鋭く一点に注がれていたが、やがて、風の音に負けない大音響で言い放った。
「我が軍は敗れたり!」
王の横でひざまずいていたルパは、はっとして王を見上げた。
波立つ草原の遥か向こうでは、北からの侵入者を相手に戦いが行われている。成人した五人の王子全員が参加して軍の指揮している。苦戦の報告は連日伝えられてきていた。
“だが、どうして負けたとわかるのだろう。”と、ルパは思った。彼がいくら目を凝らしても、青い草原が広がるばかりで戦いの様子などは見えるはずもない。戦場は遥か彼方なのだ。だが、王は厳然とルパに言った。
「城内の民全員を招集せよ。二十四時間以内に南に向けて退避を開始する。敵が来る前にここを去るのじゃ。」
ルパは、腑に落ちないまま王を見上げていた。ほんの少し前まで、病床に枯れたように伏せていたこの王が今は雄雄しく目の前に立っている。そして、見えないはずの戦を見たかのように言って判断している。一体、どうしたことだろうか。
「急げ。王の命令じゃぞ!」
王が怒鳴ると、ルパは我に返ったように立ち上がり反射的に頭を下げて螺旋階段を駆け下りて行った。王の命令は瞬く間に城内に伝わり、こうして、一万人の人々を引き連れた大移動が始まった。
戦場からの伝令が息も絶え絶え北の城門をくぐった時には、すでに人々の長い列が南の門の前にできていた。伝令は「我軍、壊滅。」と、叫ぶなり血を吐いて倒れると、そのまま二度と起き上がらなかった。敵の軍勢が利用できるものは何も残さないようにと、近衛兵は松明を手に一斉に城内を駆け巡り火をかけた。城も家々も商店も納屋も、街の全てが焼け落ちる中を、人々はあきらめたように口をつぐみ、観念したまま行列は王を先頭に南をめざして粛々と進みはじめた。かつては二万人だった人口が、一万人に減ってしまったのは、侵入者との度重なる戦いのためだ。民の多くは老人、女性、子どもたちだった。そして兵役を免除された若干んの男性と城に残っていたまだ幼い王子や王妃達、大臣やその家族から成るこの行列は不安のなかを、持てる限りの荷物を抱え、家畜を引きつれながら進んでいった。街全体が灰となる頃、この人々の姿も、一よりの糸のように南の丘陵の中に吸い込まれ視界から消え去った。
数週間たっても、一行はまだ広がる砂漠をさすらっていた。日中の砂漠の太陽は刺すように人々の肌を焦がし、夜は身体の中まで鳥肌が立つような寒さが襲った。人々は僅かになった食べ物と水を抱え、うめき声さえあげられずに、ただ王の後をたどるように行進をしていた。
「子どもが、ひきつけた!」
突然、若い母親が赤ん坊を抱えて叫んだ。周りの女達の間にざわめきが起こり、何人かが水筒からわずかばかりの水を布にしめらると子供の唇にあてて介抱を試みたが、赤ん坊は白目をむいて泡をふくばかりだった。遥か先を行く王に子供の変調など伝わらないのだろうか、列は歩調を緩めない。子供を抱いて砂の上に座り込む母親は先に進む人々の列の中で次第に遅れをとり、後方へ下がり、やがては見えなくなった。弱い者は脱落するしかなかった。
「王は私達をどこへ連れて行こうとしているのか。」
人々は密かにささやきあった。高じる不安を察してか、王は大声で人々に向かって言った。
「耐えよ。敵がもうすぐそこまで迫って来ておる。追いつかれぬように進め。約束の地は近い。我々の王国を新しく築く場所じゃ。異民族に攻められることなく、この小さな部族が存続できる新天地じゃ。このまま進めば、明日の昼には着くであろう。」
王の言葉は人々の間で反復され、列の最後尾まで伝わっていった。
翌日、太陽が真上にさしかかった時、王はうねり広がる砂漠の中で突然止まり、人々に回りに集まるように指示した。風もなく枯れ草ひとつない、だだっぴろい灰色の砂の上に人々は焦燥し、日の光に焼かれながら黙って王をとりまき座った。王は一人、人々の輪の中央に立ち、片手に持っていた古い杓を頭上にかざし何か唱えると、腕を振り落とし杓の先で地面をトンと叩いた。すると、砂の中からスルスルと一本の大きな植物が生えてきた。人々が驚いて見守る中、その植物はみるみる人の背丈よりも高く伸び、大きな葉を何枚もしげらせると、先端に白いぼんぼりのようなつぼみを数輪つけた。
「この植物を恵みの木と言う。」
王が言った。
「我々の命の源となるものじゃ。根も葉も花も食せる。めしべは蜜をたたえ、日々こぼれる種子からは油がとれ、茎はよい繊維となる。葉と根を煎じれば薬となり、つぼみが開けば花の内側から光が放ち、太陽のささない地の底でも我々を明るく照らす。花は一日に決まって十四時間だけ開き、あとの十時間は閉じる。閉じれば地底は闇となる。これにより我々は太陽の届かない場所でも昼と夜を区別することができる。」
“地の底で花が光るだって。一体、王は何を言っているのだ。”
戸惑いが人々の間を走ったが誰も声にだすものはなかった。皆、意味もわからないまま、ただ緊張して王を見上げていた。沈黙の中で王は再び杓で足元の砂を叩いた。すると、恵みの木は瞬く間に地中に吸い込まれ、その後にポッカリと穴が残されたかと思うと、その穴はみるみる大きくなり荷車が通れる程に広がった。砂の中に丸く空いた口のようなものだ。その口の中に階段が地中深く伸びていっている。
「いざ進め。我が新王国建国の地へ。」
王は群集に向かって叫んだ。民も親族も重臣も皆、身じろぎもせず驚き顔を見合わせる中、一人の男の声がした。
「お待ちください。」
ルパだった。ルパは王の前に走って進み出ると膝まずいて言った。
「我らが王よ、王は私たちを地の底に導こうとされるのですか。約束の地とは、日の光もささぬ地底のことなのでしょうか。そこで、虫けらのような生活を営なめと言われるのでしょうか。王よ、お許しください。私は敵に命を奪われようとも、砂漠の熱に焦がされようとも、風が流れ、星月が輝くこの地上で人間らしく命をまっとうしたいと思います。私と私の一族がこの砂漠にとどまることをお許しください。」
「ならぬ。」王は厳しく言った。「我が民族は滅びの危機に瀕しておる。そのような大事の折に、勝手な行動は許されぬ。」
ルパは平身低頭して王の衣のすそをつかみながら重ねて言った。
「王よ。このまま南へあと数日も進めば、行商人が海と呼ぶ大きな水の溜まり場に出会うはずです。そこへ向かうことを、どうぞ、お許しください。」
「数日もしないうちに敵に追いつかれ蹂躙されるだろう。ルパよ、お前は私の忠臣だった。そして私はお前を愛し重んじた。その私の命令に従えぬと申すのか。」
「お許しを、我が敬愛する王よ。しかしながら、どうか、私の一生に一度の願いをお聞き届けください。」と、ルパがはいつくばうように砂の上に土下座をした時、王の杓から雷光が走り出てこの若い忠臣を打った。ショックが体を走り青白い炎が身体全体を包んだ。揺らめく炎の中でルパは茫然と王を見上げ、ゆるゆると立ち上がり片手を高くあげると南を指差し、次にゆっくりと倒れていった。
「おお!」
その時、ルパの一族の者は額にひどい痛みを感じてうめいた。彼らの額にRの文字が焼き付けられたように浮かび上がってきたからだ。王は恐れおののき声も出ない人々に向かって再び叫んだ。
「さあ、進め。我々には時間がない。」
群集は無言で王に従った。一人一人、順番に砂漠の入り口から地下へと向かって行った。その列の後にルパの一族の者が迷いながらついていった。幼い息子を抱いたルパの妻が行列の最後だった。母子は砂漠に横たわる焼け焦げたルパの姿を振り返り振り返り涙を流し、地底を目指して進んで行った。二人の姿が地中に消えると同時に砂漠の入り口は閉じ、砂漠はもとどおりになった。ただ、南を指差したルパの遺体だけが太陽の光にさらされたまま残されたが、じきにそれも砂漠が彼の遺体を隠し安置するかのように風に運ばれた砂で覆われ見えなくなった。
© 2009 B. B. Sakiko