第二章:王宮
王女エステスは気掛かりな面持ちで王宮の渡り廊下を王の執務室に向かって急いでいた。朝、急に父王からの呼び出しがあったからだ。
“昨日こっそりお城を抜け出したことがばれたのかしら。もし、そうだとしたら、どうしてわかったのかしら。”
執務室のある中央棟に来ると、明後日の祝賀会のために宮廷使用人たちが今から忙しそうに前庭にテーブルや椅子を並べている様子が見えた。テーブルクロスを広げるメイドもいれば、飾り布を壁に垂れ下げようとしている者もいる。エステスは顔をしかめると、うつむき加減でその華やいだ様子を見ないようにしながら棟に入って行った。
執務室では白髪の王は部屋の奥にある大きな石のテーブルの向こうで、同じく白髪の十一人の大臣と何か話しこんでいるところだった。エステスが入っていくと王は上機嫌で立ち上がった。
「よく来た。娘よ。近寄るが良い。今朝の具合はどうかな。」
「ようございます。お父様はいかがでございますか。」
「元気じゃ。いや、全く快調じゃ。」と、王はエステスに椅子をすすめながら答えた。
「だが、王女よ。今朝、朝食に現れなかったではないか。気分がすぐれないから、と、コマが申しておったが。」
“やっぱり。お城をぬけだしたことがばれたのだわ。”と、エステスは思った。
昨夜は、エステス付きの女官コマと一緒に街中にこっそり出かけたのだが、その時のあるできごとが気になって朝方まで寝つけなかったのだ。それで寝坊をしてしまった。これから王の説教が始まるにちがいない。エステスは首をすくめるようにして立っていたが、彼女の心配とはうらはらに王はいたって上機嫌のまま言った。
「今はすっかり元気なのだな。」
「はい、頭痛がしておりましたが、今はおさまりました。朝食でお目にかかれず残念でございました。」エステスはとりあえず無難な受け答えをすることにした。
「なに、お前が健康でありさえすれば良い。」
エステスはいぶかしい思いで父親を見上げた。“お説教ではなさそうだわ。”
「明後日という大事な日を控えておる今は格別大事にするように。何のことかわかっておるであろうな。」
“ああ、そのことなのね。”エステスの顔が曇った。
「明後日は私の十七回目の誕生日でございます。」
王は満足げに頷いた。
「そうじゃ。お前も晴れて十七歳になるわけじゃ。そこで、知ってのとおり、ここの大臣達とも前々から相談しておったのだが、やはり、祝賀会の席でお前の婚約を発表しようと思ってな。」
エステスの顔がますます曇った。彼女はしぶしぶ王にたずねた。
「婚約でございますか。一体、どなたとでございますか。」
王は王女の言葉に驚いて言った。
「何を今更そのようなとぼけたことを申すのじゃ。この宮中ではお前がいずれエミ伯爵の息子リジェと結ばれることは以前から暗黙の了解事項じゃ。候補の男子の中ではリジェが一番健康にも頭脳にも優れておるからな。お前もわかっていたことじゃ。それに以前から申しておったであろう。十七歳は正式に成人となる日であり、王女の婚約は十七歳になれば許される、と、‘戒律の書’にも記してある。」
「私のほうも以前からお父様に申し上げていましたように、婚約は十七歳でしなければならないということではございません。それに、いくら健康とはいえ、リジェはいとこでございます。リジェとの結婚は考えにくいことでございます。」
王の顔から笑みが消え、大臣達からは低いうめき声が洩れた。父王は声の調子を抑えるようにしてエステスに言った。
「お前が何を心配しているかはわかっておる。だが、問題が起こる確率は低い。見てみよ、わしとて二人の子供が生きておる。そのうちの一人は、エステス、お前じゃが、とても健康ではないか。」
王は優しい笑みを浮かべたが、エステスは父を信じなかった。
“確立が低いですって。父上はお母様の苦しみをお忘れになったのかしら。”
エステスは王の顔を正面から見つめ返すとはっきりと言った。
「お父様、私たち一家には新しい血が必要でございます。私の結婚相手は王室外から見つけていただきたいと存じます。」
王の顔から血の気が引き、大臣達がさらにざわめいた。
「それはならぬ。‘戒律の書’に王家の者はその血統の正しさを守るために、一族の中から結婚相手を選ぶようにと記されておる。外から婿をとるなどということは許されぬ。規定違反じゃ。」
父王の岩のように堅い表情を見ているうちに、エステスは心底気が滅入ってきた。
“この父は、ほんの十数年前に苦しみながら死んでいった母のことは本当に忘れてしまったのにちがいない。”
そう思うと怒りが湧き上がってきた。王妃であった母ミステスが六度の妊娠中やっとの思いで産み落とした子供が二人。
“その内の一人が私。もう一人は歩くこともままならぬ不具者ではないか。それでも心配は無いですって。”
エステスは憤然と王に言った。
「‘戒律の書’は千年も前に書かれたものでございます。今の私達に必ずしも即したものとは申せません。」
王女の言葉に王のみならず大臣達も目をむいた。王が声を震わせながら呻くように言った。
「よくも、よくもそのようなだいそれたことを。よいか、‘戒律の書’は絶対じゃ。いかに王族とはいえ書を超えることはできぬのだぞ。王女であれ規定にそむけば死をもって刑に処せられることもありえるということじゃ。あの‘戒律の書’がどのようにして書かれた聖なるものか、よもや忘れてしまったのではないだろうな。」
エステスは冷ややかに暗唱を始めた。
「砂漠に開いた我が地底国への入り口が閉じると、老王は人々を地底深い所にある台地に導かれた。その台地は周囲を川で囲まれ、恵みの木の花が咲き乱れていた。川は台地の一方で合流し、さらに深い奈落を目指して流れ落ちていた。老王はパムの花咲くその台地が建国の地であることを人々に告げ、城を台地の一角に築くことを命じられた。ただ、後に‘Rの者’と呼ばれるルパの一族だけは台地に住むことを許されず、川のずっと上流にある地表に近い湖のほとりに居住し王家のために魚の守を営みとするように命じられた。城造りの間、老王は一人岩穴にこもり、一ヶ月の間食物も水も口にせず一睡もすることなく、五万三千二百五十七ケ条に及ぶ‘戒律の書’を著された。‘戒律の書’は社会秩序を詳細に規定している絶対の書物である。最後の条項を書き記された時、老王の手の動きは止まり、この偉大なる王は永遠の眠りにつかれた。人々は民族の救い主である老王を讃え、以降、神聖王と呼ぶこととした。」
王は片手をあげてエステスを遮ると、厳かに言った。
「その通りだ。よくわかっておるではないか。神聖王がその神々しいお力で示された戒律に逆らうなどありえようはずもない。その戒律にのっとって、この国は繁栄を維持してきたのだ。それに、神聖王の意に背くことは、我らが王家一族の血統の源を否定し、いわば、お前自身の血を踏みにじることにもなろうぞ。」
「でも今、その血そのものが汚れようとしているのではありませんか。父上、千年前とは物事が違ってございます。寿命も違ってございます。なぜか、私達は、神聖王当時と比べて二倍も長い人生を営んでおりますれば、十七歳という年齢での婚約もどれほどの意味を持ちますものか。」
大臣達がどよめいた。王の手がわなわなと震え、顔が真っ赤になって、とうとう怒鳴った。
「ええい、大臣たちの面前で、わしに恥をかかせようというのか。式典の準備はもう進んでおる。お前の希望等どうでもよい。お前のためを思ってわしが成したことを喜ぶどころか戒律批判までしおって、なんたるふとどきじゃ。今日一日を反省部屋ですごすがよい。全く、十七歳にもなりおって子供のような罰が必要とは恥ずかしいかぎりじゃ。反省部屋でもう一度、初心に戻って歴史の勉強をするがよい。カルハには、ちゃんと神聖王の偉大さを教えるようにわしから申し伝えておく。」
エステスは無言のまま頭を下げると扉の方に退いた。これ以上、王に何を言っても無駄なことは明らかだった。
“最初からこうなることはわかっていたのに。”
苦い思いのまま扉の取っ手に触れたとき、王が大臣達に向かって声高にエミ家の歓迎準備を命じたのが聞こえた。
「エミ家の旗を入り口に掲げよ。古代動物であるライオンの姿が描かれた旗じゃ。」
エステスは、はっと動きを止めると振り返って王に尋ねた。
「お父様、エミ家の紋章はライオンでございますか。」
「そうじゃが。それが、どうかしたか。」
王が不思議そうに聞き返した。
「いいえ、何でもございません。」
エステスは一礼をすると執務室を出て行った。
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